続・きせきみるもの

原稿14・最後の挑戦・謝罪・さわやかな幕切れ
〜KARATEKA AND EXTREMISTS〜 

 やれるだけのことはやった。
 後は、それを全て出し尽くすだけだ。
 綾香、好恵、そして葵の顔には、もう恐れの色はなかった。
 ついに、最後の挑戦の時がやってきたのだ。

 空手道場は、人、人、人で埋め尽くされていた。
 世紀の決戦、その最終戦を見届けようという観衆でごった返している。
 そんな観衆に目もくれず、伏見と鳥羽に綾香と好恵、そして葵が対峙している。
「伏見さん、お願いしま…」
 葵がそう言いかけた時、
「ちょっと待った!」
 伏見が止めた。
「今日は、今までと形式を変えてやらないか?」
 突然の提案に、三人は戸惑った。
「今日は3対1でやるというのはどうかな?1対1じゃまた同じことになりそうだからね」
 三人はますます戸惑う。
 しかし、確かに1対1でやれば、今までと同じことになるのは目に見えている。
 それはわかっていても、完全になめられている、バカにされている…その感は否めない。
「それじゃ、俺が攻撃できるのは一人につき一発ずつ、当たらなかったらそれでおしまい。それでどうかな?」
 お前らなど、一発で仕留めてやる、と言う意味なのだろうか。
 ムカッとした綾香は、
「いいわよ!やってやろうじゃない!」
 ほとんどヤケで返事をした。
「私もそれでいいです!」
「私もです!」
 綾香に続き、好恵、葵も了解した。

「両者は位置に付いて!」
 審判の号令に従い、綾香、好恵、葵が横一列に並ぶ。
 鳥羽が向こう正面に立つ。
「用意…」
 今日こそ、この男に勝つのだ。
 それは無理でも、せめて一矢報いるのだ。
 みんなの期待に応えるために。
 自分たちは格闘家だということを証明するために。
「始め!!」
 審判の声がかかった。
 それと同時に、綾香が進み出てくる。
 葵と好恵は、後衛のような位置に立っている。
 ジャブを繰り出すが、伏見は右に、左に、と振り子のようにかわす。
 続いてローキック、ミドルキックと続く。
 これまた、伏見は難なくかわす。
 しかし、ジャブといい、キックといいあまりにもかわしやすいものだった。
 スピードはあるが、伏見を真剣に狙っているとは思えない。
 もっとも、かわしやすいと言ってもそれは伏見にとっての話、並大抵の格闘家には無理だろう。
 …そうか、そういうことか!
 好恵が何ごとかに感づく。
 感づくが早いが、綾香の斜め後方に付いていた好恵は二、三歩ステップを踏んで前進する。
 そして、軸足にすべく左足に力を込めた。
 綾香がおとりになって前に出て、その隙をついて好恵か葵が攻撃する。
 綾香のその作戦を好恵は察し、見事にその作戦は的中…だったはずが。
 前方に伏見がいない。
 …えっ!?
 その刹那、好恵は自分の身体が前方へと倒れて行くのを感じていた。
 見越されていた。
 地をかすめる伏見の足払いが、見事に決まっていた。
 回し蹴りの途中の体勢のまま、好恵は音をたてて倒れた。
 その倒れるか倒れないかの間に伏見は、地を蛇の如く高速ではう。
 次の瞬間、葵の目の前に、伏見が立ちはだかっていた。
 …来るっ!
 葵が感じた時は遅かった。
 ガードをする間もなく腹部に、伏見の拳がうなる。
「ぐっ!!」 
 葵は吹き飛ばされた。
「葵ちゃん!!」
 浩之が叫ぶ。
 だが、倒れたまま葵は動かない。
 どうやら失神しているようだ。
「ま…松原葵、脱落!」
 審判が告げる。
 葵が何もできないまま脱落してしまったのを見て、場内はざわめく。
「そ、そうか…弱い方から片づけようってわけか…」
 浩之は戦慄する。
 決して卑怯な手ではない。戦略だ。
 冷酷なようだが、これ以上葵を苦しませないための伏見なりの優しさと取れないこともない。
 好恵と綾香を先に片づけて、葵一人で向かうことになったら…どんな無様な姿をさらすか、想像に難くない。
 だからこそ、この方が慈悲なのかもしれない。
 あわてて空手部員たちが葵を客席の方に担ぎ出す。
 その一方で立ち上がった好恵は、あまりに早い葵の脱落に意表をつかれたか動けない。
 伏見は間髪入れず、好恵と対峙する。あわてて好恵は体勢を取る。
 しかし、ものの五秒と立たずにケリはついた。
 伏見は好恵の右ストレートを軽く受け流したかと思うと、目に求まらぬスピードで腹部に向かって拳を叩き込んでいた。
「あっ、あれは…崩拳!!」
 型を見て気づいた浩之が思わず叫んだ。
 一発だけの崩拳だが、葵よりもはるかに型がしっかりとしていて、寸分もはずしていない。
 その一発は、葵の何発分の威力があるのだろうか。
 ともあれ、葵の崩拳が70点なら伏見は100点満点、パーフェクトとしか言いようがない。
「ぐおおっ!!」
 好恵は吹き飛ばされた。
 その身体が、綾香をモロに直撃した。
 至近距離だったので、避ける余裕がなかったのだ。
 二人はもつれるように倒れた。
 綾香は、好恵の下敷きの格好になっている。
「坂下好恵、脱落!」
 審判が駆け寄って、好恵が失神しているのを確認した。
「くうっ…この化け物!!」
 覆いかぶさった好恵を払いのけるようにして、綾香は立ち上がった。
 が、その直後だ。
 …こ、これは!?
 伏見が軸足に力を込めてハイキックを放ってきた。 
 しかもただのハイキックではなく、後ろ回し蹴り、綾香の得意技だ。
 かつて、綾香が初恋の人を沈めた技。
 すかさず綾香は腕でガードを固める。
 …!!
 一瞬、伏見の姿が『彼』のそれに化けて見えた。
 次の瞬間、
「綾香ーっ!!」
 浩之の絶叫が響いた。

 伏見清隆…風神と呼ばれた男。
 道場内に暴風を吹き荒れさせた。
 その暴風は、三人の少女を根こそぎなぎ倒した。
「…来栖川綾香…脱落……勝負あり…勝者、伏見さん…」
 審判が絞り出すように、試合終了を告げる。 
 綾香は、床の上に静かに横たわっていた。
 伏見の回し蹴りの衝撃は綾香のガードを突き破り、ガードの腕ごと完全に首筋に命中していた。
「綾香!しっかりするんだ!」
 あわてて浩之たちが運んでいく。そのさまを伏見は無表情で見つめている。
「綾香さん、綾香さん!」
 …ん?葵?
 葵の呼びかけに、綾香は目を開けた。
 葵と好恵はもう気が付いている。
 目を開けたその時だ。
「…!!」
 目に入ったのは葵ではなく、伏見だった。
「ちくしょう…ちくしょーーーっ!!」
 弾かれたように起き上がった綾香は飛び出そうとするが、みんなに止められる。
「やめろ、もうお前の負けだ!!」
「やめてよ、もう!」
 浩之やあかりたちが必死に止めるが、綾香は暴れ、訳のわからないことを叫んでいる。
「あたしは、あたしは…負けるわけない、チャンピオンなのよ!!」
 叫び続ける綾香の前に、小さな影が進み出た。
 マルチだ。
「綾香様、もういいんですよ。十分頑張ったじゃないですか。とても立派ですよ」
 マルチが、優しく語りかける。
 が、その言葉が綾香の怒りの火に油を注いでしまった。
「うるさい!!」
 次の瞬間、マルチは吹き飛ばされていた。
 床に叩き付けられる寸前、
「危ない!」 
 間一髪、横から飛び出した伏見がしっかりと抱きとめた。
「……」
 伏見に抱きかかえられたマルチは、ブレーカーが落ちて気絶していた。
 驚いてみんなが力を緩めたその時、綾香は制止を振り切って飛び出していた。
 が、鳥羽が立ちはだかるや否や、
「待て!!」
 腹部に拳が入る。
「ぐがああっ!!」
 ガードを突き破る猛烈な衝撃に、綾香は絶叫する。
 気絶しない程度の威力なので、苦痛は並大抵ではない。
「今自分が何をやったか、良く見てみろ!彼女はどれだけ痛かったかわかるか!!」
 鳥羽の叫びが道場内に響く。
 が、鳥羽になど構ってられないとばかり、綾香は伏見の方に向かおうとする。
「くっ…!」
 今度は首根っこをつかまれた。
「目をそらすんじゃない!!」
 強引に、マルチの方に顔を向けさせられる。
 みんなが、横たわっているマルチを心配そうに見ている。
「大丈夫です、ブレーカーが落ちただけです」
 マルチを診たセリオが言う。
 みんながホッとする。が、
「来栖川さん、見損なったわ!」
「けだもの!」
「あんたなんか格闘家じゃない!!」
 観衆から一斉に激しい罵声が飛び始めた。
 綾香はたじろぐ。
 こんなことは初めてだ。
 歓声を浴びるのがいつものことなのに、今は罵声を浴びせかけられている。 
 未だかつて体験したことがない、恐ろしい脱力感が襲ってくるのを感じていた。 
 それを振払うように、伏見の方に目をやる。
 だが、伏見に向けて足を踏み出したところで、鳥羽に捕まった。
「おっと待った。一緒にスパーリングやらないかって言ってたな」
「……」
「そんなにスパーリングが好きなら、俺がやってやる」
「やれー!やっちまえー!!」
 観衆があおり立てる。
 もう、綾香を応援する者はいない。
 浩之たちは罵声こそ発しないが、呆然と見ているしかできない。

 鳥羽…雷神と呼ばれた男。
 雷鳴にも似た衝撃音が、道場内に響いている。
「ぐはっ!!」
 いかなる綾香のガードも技ではなく力で突き崩す。
 腹と言わず、足と言わず、鳥羽の攻撃が刺さる。
「ぐっ!うう…」
「痛いだろう、苦しいだろう!苦しかったら、周りの人間の痛みを考えてみろ!!」
 うずくまった綾香に、さらに鳥羽は浴びせかける。
「どうした、もう終わりか。立て!それとも、ギブアップするか?」
「…まだよ!これぐらいで終わってたまるかー!!があっ!!」
 立ち上がった綾香を、足で軽く弾き飛ばす。それでも立ち上がる。
「あたしはあんたたちの家来じゃないんだ!好き勝手になんかさせるか!死んでも頭下げるもんかー!!がふっ!!」
「いつも好き勝手なことばかりしてるのはてめえだろうがよ。その好き勝手で、ご両親やおじいさん、おばあさん、お姉さんがどれだけ心配したかわかるか!!」
 鳥羽の冷酷な攻撃はやむことはない。
「どれだけの人が痛い思いをしてきたかわかるか!!」
 いかなる綾香の攻撃もかわされ、防がれる。
「この痛みで、自分が今やったことと、今までやってきたことを感じるんだ!!」
 軸足にしようとした足を、足払いで刈られる。
 そして立ち上がったところを、さらに弾き飛ばされる。
 そこへ、好恵と葵が飛び出した。
「綾香!!」
「綾香さん、助太刀します!」
 が、次の瞬間、二人とも腹部に一撃を受けて弾き飛ばされていた。
「そこの二人もだ!こんな体たらくで、格闘哲学だ、決闘だなんて、とんだお笑い草だ!!」
 二人はまだ立ち上がれない。苦しみもがいている。
「どうした、助太刀するんじゃなかったのか。…この大バカ野郎ども!五日間、一体何をやってきたんだ!正直言って、がっかりしたぞ」
 鳥羽は手を止めた。
「たとえ勝てなくても、頑張ったことに意味がある?勝ち負けよりも大事なものがある、それは努力すること?ふざけるな。そんなせこい慰めが俺や伏見が言ってくれるとでも思ったのか!友達なら言ってくれるだろうが、言ったところで、この無様な結果が覆るか!」
 好恵と葵、そして綾香は、何も言い返せない。
「普段は大人扱いしてほしがるくせに、いざとなったら、子供ということに逃げる。都合のいい時だけ子供になる。子供ということを利用する。最低だな」
「それが子供ってもんでしょ!」
 綾香はここぞとばかりに反論した。が、
「じゃあ無意味な遠回りするな。初めから子供でいればいいんだ。情けない、格闘家がコロコロコロコロ態度変えて、情けない、全く情けない」
「くそおおおーーーーーーっ!!」
 立ち上がった綾香は果敢に鳥羽にかかっていくが、またも弾き飛ばされた。
「がっ!!」
「よく、苦労は金を出して買え、買ってでもしろって言うけど、別にしなくてもいい。でも遠回りする必要もないんだよ。…そうだな、俺も遠回りし過ぎた。だからこのへんで終わりにしよう」
 立ち上がろうとした綾香を、鳥羽は素早くヘッドロックにかけた。
 首や肩、腕を完全に固められている。
「ぐっ…」
 綾香の苦しみは尋常ではない。
 普通の人間だったら、2、3秒で落ちているだろう。
「鳥羽さん!もういいだろ!こんなのスパーリングじゃない、ただのリンチだ!!」
 鳥羽に向かって浩之が叫ぶ。
 先程、いかに綾香が狼藉をしたとはいえ、さすがに『やっちまえ』とは言えない。
 それくらいの分別は残っている。
「いいのよ、これはペナルティよ。今まで散々好き勝手やってきたツケよ。わかるでしょ、浩之も。あの時の勝負といい、クラブの練習といい、散々痛めつけてきたもんね」
 そう言う綾香の顔には、笑みさえ浮かんでいる。
「敗者風情でうるさすぎるんだよ」
 さらに鳥羽の腕に力がこもる。
 次第に綾香の視界はぼやけてくる。
「こ、殺せ…」
 綾香の口からうめきにも似た声がもれる。
「殺すなら…殺せ…」
「だめだ。そんなことで償えるほど、軽くなんかない」
 ますます鳥羽の腕に力が入る。
 あまりに凄惨な光景に、観衆たちの罵声が次第にやんでいく。
 綾香は遠ざかりかける意識を、精神力のみで持ちこたえていた。 
 だが、もうそれも限界に近づいていた。
「鳥羽、もういいだろう」
 伏見が声をかけた。
 鳥羽はうなずくと同時に、手を離した。それと同時に左腕を振りかぶった。
 ドムッ!!
 次の瞬間、綾香のみぞおちに鳥羽の拳が突き刺さっていた。
「っ…」
 今度こそ完全に決まった。
 誰もがそう思った次の瞬間、綾香は立て膝の体勢から床に崩れ落ちた。

 こうして、一連の五回戦は幕となった。
 戦い終えた綾香、好恵、葵を誰も讃える者はいなかった。
 それどころか、綾香の英雄像、格闘界のアイドルのイメージはメチャメチャにぶち壊されてしまった。
 だが皮肉なことに、それが伏見と鳥羽の人気が復活する結果となってしまった。
 戦い終えた二人を歓声を上げて観衆たちは囲んだ。
「よくやってくれました」
「あなたたちはやっぱりヒーローです」
「失礼をしちゃってごめんなさい」
 しかし、伏見と鳥羽の顔には喜びの欠片もなかった。
 能面のように、無表情のままだった。
「綾香さん、坂下さん、松原さん。ちょっと話そうか」
 道場の隅に座り込んでいる三人の方を向いて、伏見が言った。

 夕暮れの屋上。
「座ろうか」
 綾香、好恵、葵は横に並んでベンチに座った。
 伏見は、三人に向かい合うように立っている。
 双方はしばらく、何も言わない。
 長い長い沈黙が流れる。
 聞こえるのは、グラウンドからの運動部の声だけだ。
 綾香はあれだけやられたにもかかわらず、一週間もあれば治る軽傷であった。
 あれでも鳥羽は手加減していたのだ。
 しかし、さすがにショックが大きかったのだろう、全くしゃべろうとしない。
 ベラベラまくしたてるいつもの綾香の面影はどこにもない。
「正直に言おうか」
 伏見が沈黙を破った。
「五日間頑張ってもらったけれど、実力はまるで伸びてない。それどころか、日を重ねれば重ねるほど悪くなってるんだよね。鳥羽が怒るのも無理ないよ」
 伏見のストレートな講評を、三人はうつむいて聞くしかできない。
「どう?何か言いたいことはあるかな?何でもいいよ、言ってごらん」
 少し口調を柔らかくして、伏見が問う。
「……」
 言いたいことは…ある。それこそ一杯あるはずなのに、言葉にならない。
 何から、どうやって話したらいいのか、わからない。
「じゃあ、今の気持ちを言ってごらん」
 伏見が付け加える。
「今の気持ち?……すごく惨めで…悔しい」
 やっと綾香が答えた。
「私も…」
「私もです…」
 続いて好恵、葵も答えた。
「悔しい、か。当たり前だよね」
 伏見は別段意に介する様子もない。
 また沈黙が流れる。
「伏見さん…約束通り、私たち…今日限り…格闘技をやめます」
 途切れ途切れに、好恵が言った。
「待ってくれ。俺たちはそんなことを言った覚えはないよ」
「これから言うんでしょう?わかってます」
「いや、違う」
「いいわよ、やめてやるわよ。続けるなんて言ったら、またボコボコに殴るんでしょ?」
 綾香が自嘲的な笑みを浮かべて言った。
 もう終わりだ。
 もうどうだっていい。
 だが伏見は意外な言葉を返した。
「やめるのはいいけど、借りを返してからにしなよ」
 綾香は唖然とする。
 借りとは一体何なのだ。
「君のためのジム、建てるのに一体いくらかかったのかな。トレーニング用の機材、光熱費、コーチ代、それ、全部君が大会でもらった賞金でまかなってるの?」
「……」
「そんなわけないね。じゃあ誰が出すかって、親御さんしかいないね。他にも、君はお茶や生け花の稽古をすっぽかして、息抜きに街に出る。その先生たちは君がさぼった分、損害を被っている。執事の長瀬さんも、君を探すのに車を使ったりして、ガソリン代もかさんでる。それだけじゃない、君を探してたためにできなかった仕事を休日返上でしなければならない。でも君を思うと休日手当を出してくれとは言えない。また損害を被っている人がいる。藤田くんはどうだろう。クラブの練習で君とスパーリングをやって、ケガの一つはしてるだろうね。その薬代は、当然自分持ちだ。これはほんの一部だけど、いくら少なく見積もっても、君の背負った負債は、億を下ることはまずないね。それを返さないで、それでもやめるのかい?」
 伏見は噛むことなく、スラスラとしゃべった。
 綾香は面食らったような顔をしていたが、
「伏見さんが言いたいのは、あたしは来栖川の恥さらし、面汚し、それだけじゃない、弱い者いじめを平気でする人間のクズだってことね。だから…だからあたしに天罰を下したってわけ?格闘家の資格なんかないから、引導を渡してやったってわけ?」
 また自嘲するように言った。
「違う。俺には君を裁く権利なんかないよ。君の過去に何があったのかは知らないけど、面白半分にやってきたことは、自分で裁くしかないんだ」
「だったら…どうして?」
「…気づいて欲しかったんだ、本当の強さってのは、自分に勝つことだってことにね。君は人に勝つことでしか強さを見せられない。でもそれは本当の強さじゃない。自分の弱さを知っていること。人の弱さを知っていること。人相手には弱くても、自分には勝つことができること、それが強さだ。努力や天分だけじゃだめだ」
 そこで一息ついて、
「誰彼構わずケンカするくらいの強さがあるなら、まず自分と戦ってみなよ!」
 伏見のやや強まった語調に、三人は少し引いた。
「…………」
 綾香は俯いたまま黙っていたが、やがて両目から涙がこぼれ落ち始めた。
 泣き出した綾香を見ても、伏見は顔色一つ変えない。
「どうやら、俺の言いたいことがわかったみたいだね。ここまで追い詰められて、やっとわかったんでしょう?逆に言えば、まだ君たちはそれだけ甘かったんだよ」
 今度は、好恵と葵の方を向いて言う。
「坂下さん、エクストリームが低俗だの格闘技じゃないだの、今の君にそんなことを言う資格はないよ。格闘技哲学を語るなんてまだ早すぎるって、身を持ってわかったはずだよね。あと、松原さん。君はあれもこれもと色々なことを欲張りすぎだ。おそらく綾香さんがいろいろな格闘技をしているから、それをまねたんだろうね。人のまねをするのは確かにいい勉強法だ。でも、身分相応も考えずにただまねるのはだめだよ。それに人まねばかりじゃなくて、自分の方法も考えなきゃ勝てないよ」
 伏見の静かだが厳しすぎる言葉に、好恵、葵もつられるように泣き出した。
 自分の思い上がりと未熟さを悔やんだ涙だった。
 三人の嗚咽が、夕闇迫る屋上に聞こえる。
 泣き続ける三人を、伏見は黙って見つめていた。

 同時刻の道場内。
 観衆はみんないなくなり、いるのは浩之たちと空手部員、それに鳥羽だけだ。
 みんなが鳥羽を囲むようにして座っている。
「みんな、あそこまですることないのに、って思ったろうな。かわいそうって言えばかわいそうだと思う。でもあそこまでしたのは、自分たちのしたことを自覚させるためだよ。何かというといつも力で解決しようとしてばかりだろ?いつもやってるのはこういうことなんだ、ってわかってほしかったんだ。伏見は違う考えでやったのかもしれない。でも俺の考えはこれだ」
 先程とは打って変わって、穏やかになった鳥羽がみんなに話す。
「じゃあ本題に入ろう。どうして俺たちがあんなことをする羽目になっちゃったのか、みんなで考えてみようか。自分には関係ない、って言う人は帰っていいよ」
 鳥羽は辺りを見回すが、誰一人として帰る者はいない。
 本当に一緒に考えようと思ってのことなのか、周りがみんな残っているを気にしてのことなのかはわからないが、ともあれ全員残った。
 しばらくみんな思案顔で黙っていたが、不意に嗚咽が聞こえ始めた。
「鳥羽さん…ごめんなさい。あたしがいけなかったんです。あたしが坂下さんに、余計な入れ知恵をしたばっかりに…」
 志保だった。
 泣きながら謝る姿がみんなの胸を打った。
「いや…伏見さんとの勝負のとき、俺が綾香を止めてれば良かったんだ…」
 浩之が絞り出すように言う。
「違います。それは私の役目です。私が止めていれば、こんなことには…なのに私は…何もできませんでした…」
 セリオが言った。
「そうだね。それも原因の一つだと思う」
 みんなの言葉をあえて否定せず、鳥羽はうなずきながら聞いた。
「間違ったことを綾香様がなさるのを止められませんでした。メイドロボとして、失格です。私は…」
「待ってくれ。君、何か勘違いしてるんじゃないか」
 セリオの言葉を鳥羽が止めた。
「メイドロボ失格って、じゃあ藤田くんは人間失格なのかい?」
「いいえ、私はそんなつもりでは…」
 らしくないほど、セリオはあわてた。
「そうだね、そんなつもりじゃないのは俺にもわかる。じゃあ、どんなつもりなのかな?」
「それは…」
「ミスを犯したから失格だと言いたいんだろう?冗談じゃない、メイドロボは何でもできるスーパーマンじゃなくちゃいけないのか?そんなこと、いくら技術が進歩したってできるわけがないんだよ」
「…」
 セリオは言葉を返せない。
「もう一つ聞くけど、綾香さんにとって君は何だろう?部下?付き人?」
「……」
「どっちも違うな。俺から言おう、友達だ。親友だよ」
 鳥羽の言葉に、セリオは少々驚いた表情になった。
「でもあの時の君は、友達じゃなかったな。一緒になって間違ったことをしたら、それは友達じゃなくて手下だ」
 静かに非を挙げられ、セリオは俯いている。
「俺は決して、誰が一番悪いなんて裁判をやろうとしてるんじゃない。でも、何がいけなかったのかをわかってほしいんだ。あの三人だけじゃない、周りにも責任はあるからな」
 鳥羽が淡々と言う。
「藤田くん」
「は、はい!」
 鳥羽に名前を呼ばれ、思わず浩之は背筋が伸びる。
「もう一度聞くけど、どうして君は綾香さんと勝負したのかな?」
「そ、それは…昔のことで悩んでる綾香を助けてやりたかったから」
「勝負すれば、助けてあげられると思ったの?」
「う、うん…」
「ああ、それだな。答えは、そんな簡単に出せるものじゃないよ。君は結果を急ぐあまり、答えを急ぎすぎたんだ。答えを出すよりもっと他にすることって、なかったのかな?それほど余裕がなかったのかな?」
「うん、確かにそれはあるんやないかな」
 それまで黙っていた智子が発言した。
「こっちが本当にしてほしいこともわからんと、藤田くんはいろいろやり過ぎ、先走り過ぎなんや。それがはき違えた親切ってものなんやで」
 歯に衣着せぬ物言いに、浩之は返す言葉もない。
「ちょ、ちょっと待ってよ。それじゃ浩之ちゃんが悪いの?誰かのためなら自分のことなんか考えないで何でもできるのが、浩之ちゃんの一番いいところでしょう?確かに行き過ぎはあったかもしれないけど、それでみんな、助けられたんじゃない」
 あかりが抗議した。
「それなのに、今更そんなこと言うなんてずるいよ。恩知らずすぎるよ」
 怒ったようなあかりの言葉に、智子はひるんだ。
「…そうやな、一番悪いのは私や。自分を変えようともせえへんで、東京を口実に逃げようとしてたんや。それに、さんざん偉そうなことばかり言うて、結局藤田くんに泣き入れて…最低や。藤田くん、ごめんなさい」
 智子は素直に自分の非をさらけ出して謝った。
「私も…心配してくれる藤田さんから散々逃げてたくせに、結局は泣きついて…そんなのって、卑怯ですよね。ごめんなさい」
 続いて琴音が謝った。
「ヒロ、ごめんなさい。あたしも…何かというと泣き入ればかりしてたから…それで断られると、『噂流すわよ』なんて言って…あたしだって、本当はおしゃべりすぎな自分が嫌なんだ。自分でもわかってるけど、どうにもならないのよ。あたし、どうしたらいいんだろ…」
 志保が謝ったあと、浩之に問いかけた。
「自覚できただけでも立派だよ。…まあ、すぐには無理さ。少しずつ自分を変えていかないとな。どうするかはお前が考えろ」
「…うん、わかった」
 浩之の言葉に、志保がうなずいた。
「そうだよ、それでいいんだよ。それが君のすべき役目だ」
 聞いていた鳥羽も微笑んでうなずいた。
「…俺の…役目…それじゃこの際だからみんなに言うけど、これからは俺、問題の答えを教えることはしないよ。時々は、突き放すこともあるだろうな。でも、絶対に見捨てたりしない。これが俺の決意だ」
 浩之の宣言に、みんなは大きくうなずいていた。
「みんなはいい友達がいるね。みんなは幸せ者だよ。藤田くんのおかげで、みんなひとりぼっちじゃないんだからね」
 後を受け継ぐように、鳥羽が優しく言う。
 先程綾香とスパーリングしたときとは、まるで別人のようだ。
「私…マルチさんがうらやましいです」
 突然のセリオの発言に、みんな「?」となった。
「こんな時にはマルチさん…涙を流せるのに…私には…」
「いや、君も泣いてるよ」
 今度はセリオが「?」となった。
「私には涙を流す機能が…」
「涙を流してないからって、泣いてないことにはならない。今のままでいい、たくさん泣いてごらん」
「……鳥羽様…私は…私は…」
 セリオは泣いた。
 涙を流さずに号泣した。
「…うっ、うううっ…鳥羽様ぁ…」
 それにつられるように、マルチも泣き出した。
 次から次へと、みんなは泣いた。

 再び、屋上。
 ひとしきり泣いた三人は、黙ってベンチに座っていた。
 もう涙の跡は乾きかけている。
「泣くだけ泣いて、すっきりしたかな?」
 伏見は三人に問いかけるが、答えはない。
「さっきはあんな偉そうなことを言ったけどね、俺だって、ジェニファーのことを思って泣くこともあるよ。すぐにでもジェニファーに会いたいのに、会えないからね。でもいくら泣いてもジェニファーに会いたいって気持ちは変わらないよ。鳥羽だって同じはずだよ。エレナに会いたい気持ちはずっと同じはずだよ。泣くのは決して弱さじゃない、と思ってる」
 二人の恋人の名を聞いて、妙な親近感を綾香、好恵、葵は二人に感じた。
 この人たちもやっぱり人間、恋をするのか。
 しかし、その恋人に会いたくても会えないその理由は何なのだろう?
 それを考えようとしたその時、伏見が言った。
「強さは誰にでもある。俺にもあるし、鳥羽にもある。藤田くんにも、みんなにもね。君たちにだってあるはずだよ。だからここまで続けてこられたはずだ。違うかな?」
「………ねえ、伏見さん」
 綾香が立ち上がりながら言った。
「あたしたち、伏見さんや鳥羽さんみたいな先生に教わってれば良かったかな…」
 フェンスに手をかけ、夕暮れの街を見ながら言う。
 見える家々には、既に灯りが灯っているところも多い。
「俺たちみたいな?」
「うん。そうしてたら、何も悩まずに格闘技がやれたかも知れない」
「私も。伏見さんや鳥羽さんが先生だったら良かったな…」
「私もです。徹底的にしごかれて、悩む暇なんてなかったでしょうね」
 伏見はそれに答えず、逆に三人に問いかけた。
「さて、どうする?続けるかい、格闘技?」
「あたしはやるわよ」
「私もやめません」
 綾香、好恵の二人はきっぱりと言い放った。
 だが、
「わ、私は…」
 葵だけは口ごもっていた。
「伏見さん、私、素質ありますか?見込みがあるんですか?」
 葵はすがるような視線で問いかける。
「俺が『見込みがない』って言ったらやめるの?」
「……」
 伏見にかわされ、葵は戸惑う。
「誰も教えてくれないよ。いや、藤田くんだったら『素質あるよ。大丈夫だよ』って言うだろうな。でも、そう言ってくれる人ばかりじゃないんだよ。格闘技以前に、もっと強くならなくちゃな」
「あたしは…もう何も言わないわ。葵が格闘技やめたって、責める権利なんかないもん」
「私も。やめるやめないは、葵が決めることだもんね」
 綾香と好恵が静かに言った。
 葵はしばらく考え込んでいたが、
「もう少し、考えてみます」
 ゆっくりと言った。
「よし、今日はこれで解散…といきたいけど…わかってるよね。次にやることは」
「…はい…」
 伏見の言葉に、三人の顔が青くなった。

 再び、道場。
「あ、来た」
 伏見に連れられた、綾香、好恵、葵の三人の姿を認めた浩之が言った。
「どうやら、覚悟はできたようだな。さっきやったことがどんなことか、わかってるよな」
 道場内に入った四人のうち、まず鳥羽は綾香に声をかける。
「…はい、わかってます」
 綾香が細々とした声で答えた。
「マルチちゃん」
「は、はい…」
 伏見に呼ばれ、マルチはおずおず前に出てきた。
「どうするか決めるのは俺たちじゃない、マルチちゃんだ。後は任せるよ」
 鳥羽はそう言ったきり、口をつぐんでしまった。
「……」
 みんなの刺さるような視線を受けながら綾香は早足で前に進み出ると、
「マルチ、さっきはごめんなさい!!」
 マルチの前で土下座して謝った。
「ちょ、ちょっと綾香様…」
 これにはマルチの方があわててしまう。
「いいわよ、あたしのこと殴って。蹴飛ばしたっていいから」
 周りの連中の中には、憎しみに満ちた目で綾香を見ている者も少なくない。
 伏見や鳥羽がいなかったら、とっくに綾香に殴りかかっていただろう。
「私こそ、出すぎたことを申してしまいまして…」
「ううん、マルチが謝ることじゃないわ!だって、だってマルチは…」
 綾香は泣きながら手をついて謝り続ける。その時、
「!?」
 浩之たちは息をのんだ。
 マルチの手が綾香の頭に伸び始めたのだ。
 …まさか、マルチが綾香を殴るのか!?
 そう思ったその時。
 綾香は頭頂部に、手の温もりを感じた。
「綾香さん、痛かったでしょうね。苦しかったでしょうね」
 マルチが綾香の頭をなでている。
 驚いた綾香が顔を上げると、マルチは微笑んでいた。
「もう、痛い思いはしないでいいんですよ、綾香様」
「マルチ…」 
 次の瞬間、綾香はしっかりとマルチに抱きついた。
「うわあああ…わあああん…わああ…」
 マルチの胸の中で、綾香は号泣した。
 慟哭が、道場内に響き渡った。
 綾香が泣き続けている間中、マルチは頭をなで続けていた。
 その様子を一同は、そして伏見と鳥羽は温かな目で見守っていた。

 決戦から一夜が明けた、放課後。 
 葵は教室で思案顔をしていた。
 まだ、格闘技を続けるかどうか、結論が出ないのだ。
 格闘技同好会の練習に行くべきか、それとも…。
 行ってどうなる?先輩に合わせる顔があるのか?
 でも、今やめたら…。
「こらーっ!!松原葵!!何をグズグズしてる!!」
「は、は、はい、すみません!!」
 後ろからかかった大声に、葵の背筋が伸びる。
「何やってるんだ、先輩たちが待ってるぞ!」
 振り向くと、鳥羽が後ろに立っていた。
「え、先輩たちが…」
「起立!!」
 あわてて葵は立ち上がった。
「荷物確認!!忘れ物はないか!!」
「は、はい、ありません」
「よし、荷物を持て!!…駆け足、用意!!」
 言われるままに、葵は駆け足の体勢を取った。
「駆け足、神社!!」
 葵は弾かれるように教室を飛び出していった。
 葵が出て行った後、
「どうも、お騒がせしました。…あーあ、また軍人しちゃった。俺ってしょうがないなあ…」
 鳥羽は一部始終を見ていた同級生たちに、いたずらっぽい笑みを浮かべて言った。

「クラブ、行くのかい?」
 昇降口を出たところで、葵に声をかけてきた男がいた。
「あ、伏見さん」
「それとも、帰るの?」
「い、いえ。クラブの練習です」
「どうせ勝てないし、何の役にも立たないし、誰もほめてくれないのにどうしてやるの?」
「…そ、それは……わかりません…けど、でも、やりたいんです」
 懸命に、葵は答えた。
「訳を考えるのは、また今度にします。先輩を待たせてるんです。失礼します!」
 葵は一礼すると、伏見に背を向けて走り出した。
 伏見はその後ろ姿に向けて、
「俺も藤田くんもみんなも、君はがんばってるって知ってるからねー!!」
 あたりに響き渡る大声をぶつけた。
 その声が耳に入った次の瞬間、葵の頬に一筋の涙が伝っていた。
 葵は走りながらその涙を拭いた。
 …どうして私は、格闘技をやるんだろう。勝ちたいから?強くなりたいから?『がんばれ』って言われたいから?………わからない………でも…やっぱりやりたい!だって私…格闘技が好きだもん!!
 葵は足を早めた。

 さて、ここは神社。
「すみません、遅くなりました!」
 葵が息を弾ませながら現れた。
「葵ちゃん、遅いぞ!」
「す、すみません!」
 待ちぼうけを食っていた浩之ににらまれ、ペコリと頭を下げる。
「まあいい。さあ、練習を始めようぜ!」
 行くか行かないかで散々迷って遅れたのだろう、ということは浩之も薄々察していた。
 それでも何事もなかったかのように、練習の準備に取りかかろうとした。
 その時だ。
「葵」
 その声の方に振り向くと、好恵が立っていた。
「好恵さん…」
 まさか、今度こそ決着を付けるためにやってきたのでは?
 浩之の背中に一瞬冷たいものが走った。
 ところが意外にも、
「今まで悪かったわ。ごめんなさい」
 好恵は深々と頭を下げた。
 これには葵、浩之、そして練習を見に来たあかりもびっくりだ。
 あのプライドの固まりのような好恵が、人に頭を下げるなんて。
「ひどいことばかり言ってきたけど、私は今後一切身を引く。今の私には葵を空手に呼び戻す力がないから。これからは葵の好きなようにすればいいわ」
 好恵は真摯な表情で言葉をつなぐ。
「このクラブ、潰さないでね」
「はい!」
「あと藤田…」
「おう!」
 浩之は突然話を振られても、驚かずに返事をした。
「葵のこと、どうか支えてあげて…頼むわね」
「よし、わかった。責任を持って俺が、いや俺たちが葵ちゃんのことを見るよ」
 浩之はしっかりと答えた。
「それじゃ……あら?ちょっと、綾香は?まだ来てないの?」
 立ち去ろうとして、綾香がいないのに気づいた好恵は足を止めた。
「綾香?一人で特訓してるよ」
「特訓!?どういうこと?」
 好恵は戸惑った。
「自分の格闘技を見直してみたくなって、山奥にある別荘に一人で行って修行をやり直すってさ。つまり、山ごもりするってこと。学校は一週間ほど休学するらしい」
 浩之が説明する。今朝、芹香経由で聞かされた話だ。
「あの時鳥羽さんにボコボコに殴られて、初めて自分のうぬぼれを知ったんだろうな。でも、俺わかるんだ」
「何が?」
「鳥羽さん、泣いてたよ」
「……?」
「思い切り泣いてたよ。顔には出さないけど、泣きながら殴ってた。鳥羽さん言ってたよ。『涙を流してないからって、泣いてないことにはならない』って。身を持って綾香と俺たちに教えてくれたんだ」
「綾香…」
「大丈夫だよ、綾香は絶対戻ってくるよ。綾香が簡単に潰れるわけがねえだろ。何だかんだ言って、やっぱり綾香は強いもんな」
 浩之の言葉なら間違いない…好恵は自然に確信を持つのだった。
「藤田…」
「?」
「私、どうしてあんたが女の子に人気があるのか、わかったような気がするわ。だって、絶対に女の子を見捨てないんだもん」
 好恵は照れもせず、素直な気持ちをそのまましゃべった。
 驚きとうれしさを、浩之は噛み締める。
 好恵からこんなにいい言葉をもらえたのは、初めてのことだったからだ。
「あ、それじゃ練習があるんで、私はこれで」
「坂下!」
 今度は浩之が呼び止めた。
「何?」
「お前…二人もいい師匠に会えて良かったな。綾香も、葵ちゃんもな。お前らはついてるよ」
「…うん、私もそう思う」
 始めて見る、好恵の笑顔だった。

 バシッ!!バシッ!!
 葵がサンドバッグを正拳で叩く音が、森の中に響き渡る。
「おー、やってるやってる」
「綾香さんも、坂下さんもどうやら大丈夫みたいだな」
 伏見と鳥羽は、木の陰から浩之たちを見守っている。
 …この一件で成長したのは三人だけじゃない、みんなだよ…
 …藤田くん、君はポンって背中を押してあげるだけでいいんだよ。俺たちみたいにね…
 さわやかに晴れた空のように、二人の目は澄んでいた。
 

 こうして大嵐は過ぎ去った。
 しかし、その代わりに伏見清隆、鳥羽光良と生徒たちの別れが近づいていた。
 二人の教官が生徒たちに授ける最後の教えとは?
 それは次回で。
 
 つづく

 あとがき
 格闘技の本質はゲームではない、と言うことを少女たちは知らない。辻試合で勝った、大会で優勝した?それが何になろうか。手に握るは精神ではなく、くだらないプライド。
 自信もプライドもズタズタに引き裂かれた時、何が残ったか。
 そして、底をついた後の再生。
 厳しく教え、そして優しく見守ってやるという二人の鬼教官の懐の広さを、少女たちは理解しただろうか。
 粋がってても所詮子供は子供、大人にはかなわないんだ。
 …などと、偉そうなことを書いてしまいましたが、次回はいよいよTo Heart編最終回です。


戻る inserted by FC2 system